「日本的ティール組織」「日本的ホラクラシー」の定義

(※ここで述べることはあくまで私の個人的見解です。)

私が「日本的ティール組織」あるいは「日本的ホラクラシー」について考えるきっかけになったのは、「自然経営研究会」との出会いから。
「自然経営(じねんけいえい)」とはダイヤモンドメディア株式会社の武井浩三代表らが唱える「自律的で生物論的な組織運営」です。
武井さんは「一般社団法人自然経営研究会」を立ち上げ、「自然経営」の紹介、普及にも取り組み始めています。
そうした中で、「自然経営とはどういう状態を指すのか」「自然経営の定義は何か」という問いが、研究会のメンバーから上がっています。

例えばダイヤモンドメディアは世間一般では「ホラクラシー経営」「ティール組織」として認識されていますが、ダイヤモンドメディアの創業は2007年で、これらの概念が日本で広まるはるか前から、この仕組みに取り組んでいます。
そのほかでも日本で「ホラクラシー企業」として紹介される企業もいくつかありますが、「ホラクラシー」を参考にはしているかもしれませんが、その制度(ホラクラシー憲章)自体を取り入れているわけではないことにも注意が必要です。また武井さん自身、米国式の「ホラクラシー経営」はどちらかと言えば否定的な考えを持っているようです。
なぜアメリカのホラクラシーは失敗するのか

「ティール組織」に至っては、日本で紹介されたのが今年(2018年)に入ってからですから、日本ではまだ「ティール組織」を読んでからこの制度を取り入れ、成果を出している企業はまだ存在しません。(取り入れ始めた企業はあるかもしれませんが…)
つまり「ホラクラシー経営」「ティール組織」に関して、経営論や組織論の大きな流れとしての価値はもちろん積極的に評価すべきものの、これらの本に書かれている制度や手法をそのまま取り入れようとすることが、果たして今の私たちにとって良いことなのだろうかという疑問も生じるわけです。(念のために言いますが、これらの本に書いてあることが間違っているとか取り入れるべきではないと言っているわけではありません。大いに参考すべき箇所はたくさんあると思います。)

そしてもう一つ大事な点ですが、「ホラクラシー経営」「ティール組織」というのは、「ヒエラルキー制度」「トップダウンによる意思決定」「社員同士の競争意識を高めるための実力主義制度」という欧米(特に米国)式資本主義制度や経営手法に対するアンチテーゼの位置づけがありますが、こういうのは本来「上下意識がさほど強くない社内風土」「すり合わせや合議による意思決定」「協調する組織」また「QCサークルに代表される現場の意思決定の尊重」に代表される「日本式経営」の優れた点であったのではないか? という問題意識がある点です。ここでは「日本式経営」と「欧米式経営」のどちらが優れているかということについて述べようとは思いません。ただ日本における経営は日本の文化や風土に何らかの形で基づくのが自然ではないだろうか考えは当然あってしかるべきでしょう。
このあたりについては、武井さんとともに自然経営研究会を立ち上げた山田裕嗣さんの記事 「なぜ「日本的」な組織にこだわるのか?」がとても参考になると思いますので、ぜひ当記事と併せて読みいただければと思います。

さて、前置きが非常に長くなってしまいましたが、「日本的ティール組織」「日本的ホラクラシー」について述べたいと思います。

私の考える定義は「場の創造と活用による経営」です。

「場」とは何か?

「場」という言葉は、物理学や生物学から哲学や社会学、そして経営学まで広く使われます。古代ギリシャにおいても、プラトンのコーラーやアリストテレスのトポスなど「場」にあたる概念が唱えられましたが、科学(物理学)の世界で初めて「場」の概念を導入したのは、19世紀に電磁気力を解明したファラデーとマックスウェルです。
ファラデーとマックスウェルは離れた磁石の間に働く力を電磁場と名付けました。離れた物質と物質が何故引き合い反発するのか。その物質間の相互作用を伝えているのが「場」です。その後アインシュタインは重力が伝わる空間そのものも「場」であることを証明し、量子力学でも「場の量子論」が確立されています。

この世のものはあらゆるものが、「場」における相互作用で成り立っています。
またここでいう相互作用は「自己組織化」と言っても同じです。だれかが無理やり動かしているわけではありません。太陽系が今のような形になり地球が太陽の周りを回り続けているのは「自己組織化」であり相互作用(すなわち重力場)です。

エントロピー第2法則というのを聞いたことがある方も多いと思いますが、この世の物質や現象というのは、エントロピーが増大、わかりやすく言えば時間がたつと(ほっておくと)秩序が乱れ、バラバラになろうとする力が働きますが、そういう中、「生命」はもとより、なぜ宇宙や、物質や量子が秩序を保っているのかというと、私たちの世界にはこの「場」の力が働いているからです。

20世紀の初め、この「場」の概念は、社会学など私たち人間関係においても取り入れられました。この先駆者のひとりとして有名なのは、ゲシュタルト社会心理学者のクルト・レヴィンです。レヴィンの「場の理論」は、人間の行動(B)は個人の特性(P)とその人を取り巻く環境(E)との関数(f)、つまり相互作用によって説明しようとするものです。

レヴィンはこれらの考えを基に世界で初めての「ワークショップ」を導入するなど「場の理論」の先駆者とされています。

しかし一般にはあまり知られていませんが、レヴィンより前に「場の理論」を唱えていたのは実は日本人で、明治から昭和の初めにかけて日本の哲学を確立したといわれる西田幾多郎京都大学元教授です。西田は「自分が対象(客体)を認識する」のではなく、対象、そして対象間の関係をも包むことでその存在を成立させるようなある実在を想定し、これを「場所」と名付けました。

西田のこの論文「場所」は1927年に発表されましたが、その20年近く前、1911年に初めて世に出され、今でも読まれ続けている「善の研究」においても、この考え方は示されています。

西田はこの本で、今日でいう「全体性」を唱えています。人間の意識は一見各個人固有のものに見えるが、本質は「純粋体験」(今日の言葉で言えば潜在意識や暗黙知)であり、そしてその底に「共同体意識」があるとしています。これは恐ろしいほどユング心理学の「普遍的(集合的)無意識」と同じものです。1911年という年はまだユングがフロイトと袂を分かつ前ですから、もしかするとユングより早くからこの概念に気づいていたのかもしれません。

そして善とは、外から決められる「他律」ではない。他律という法律や道徳といったもので思想や行動を強制的に決められたり、キリスト教などにみられるような、「経典に従って善行をしないと地獄に落ちる」といった恐怖に基づくものではなく、人は本来、自律的なもの、人の欲求に自然に従うものであるとしました。
ここでいう欲求とは、もちろん利己的な欲望を指すのではなく、共同体意識へ帰ろうという意思の統一へと発展したい欲求を指します。「つまり善とは自己の発展完成self-realization」と述べています。

私は「善の研究」をここまで読んで、腰を抜かすほど(死語?)驚いたのですが、マズローがあの有名な欲求5階層理論を完成させたのが1960年ごろです。

最上位である第5階層欲求は自己実現(Self-actualization)欲求であることもご存知の方も多いと思いますが、このSelf-actualizationを初めて使ったのはクルト・ゴールドスタインです。この語は1934年に刊行された「生体の機能 心理学と生理学の間」で使用されていますが、自己実現とは(今日言われているような)自分の夢をかなえるとか、なりたい職業に就くという意味ではなくて、「生命体と環境の交渉の様式によって可能になり全体とこの調和の中で、生命体と周りの環境と調和しつつ自己の特性を実現する現実化の表現」を言います。

またひと頃日本で流行したアドラーが人間の欲求の最上位とした「共同体貢献」もほぼ同じ意味と言ってよいでしょう。(マズローは大学時代(1930年ごろ)アドラーの講義を受けています)

繰り返しますが、ユング、アドラーが心理学界でようやくデビューし、マズロー(1908年生)が生まれたころ西田は「自己実現Self-actualization」とほぼ同じ「自己の発展完成Self-realization」またユング心理学のSelfや「集合的無意識」とほぼ同じ「純粋体験」「共同体意識」という概念を打ち出していたのです。

また、西田は「自己組織化」の概念を世界で初めて打ち出した学者としても、それにかかわるものとしては特記すべき点です。自己組織化の概念は、1945年ごろのベルタランフィによる「一般システム理論」やウィーナー、アシュビーらによる「サイバネティクス」から始まり、1980年ごろからの「複雑系」から一般的に広まったとされています。

西田はもちろん「自己組織化」という言葉は使用していません。例えば西田哲学の認識論で「自覚・反省」という言葉がありますが、これは日本における自己組織性論の大家である今田高俊東京工業大学名誉教授が自己組織化の大事な要素であるとした「自省作用」とほぼ同じ意味です。

またもう一つ西田が自己組織化をすでに導入していたエビデンスとして、生物学者の福岡伸一氏が彼の有名な理論である「動的平衡」(自己組織化による生命理論/生命であることの状態)は既に西田哲学に織り込まれていたと著書「福岡伸一、西田哲学を読む」の中で語っています。

話を「場」に戻しますと、西田の「場所の論理」の特徴は、「述語の論理」としている点です。「共同体意識」である「場所」の前には、「私」「あなた」といった区別はない。これは私たちの周りにみられる「場」、例えば組織やコミュニティを想像すればわかりやすいかと思います。

コミュニティの中で「私」つまりそれぞれの自我やエゴが表に出てしまうと、「場」は成り立たず、組織やコミュニティはうまくまわらなくなります。そのような組織を運営するには、誰かが権力で強制力を働かせたり(「ティール組織」の本でいう琥珀(アンバー)組織)、規則やマニュアルで統制したり(同じく「オレンジ組織」)、もう少し気の利いた組織であれば、共通の目標であるとか、リーダーに対する尊敬、愛情といった力で組織をまとめる(同「グリーン組織」)という形をとらざるを得ないでしょう。

お気づきの方も多いと思いますが、日本語は主語が省略されることが多く、述語のみでも成立します。「愛している」と「I love you」を比べるまでもなく「私が」とか「あなたを」は、特に強調するとき以外使いません。

この日本語の特徴や、欧米の「個人主義」と日本の「集団主義」といったよく言われる言葉、あるいはサッカーなどで見られる、欧米や南米のチームにみられる「個の力」と日本チームの「パスワーク(つまり選手間の相互作用)」の差のような象徴的な現象からも見られるように、また日本人は「空気を読む」と言われますが、この空気とは「人々の暗黙知が相互作用する『場』」そのものすが、欧米人にエアー(空気)と言っても意味が伝わらないように、「私」「自我」が前面の彼らは「場」に対する知覚が基本的にありません。「場」を認識したり、また形作ることは日本人の「独壇場」といっても過言ではないと思います。

以上のことから、「日本的ティール組織」「日本式ホラクラシー経営」を「場の創造と活用による経営」と定義してみました。
後編では、日本が世界に誇る経営学者である野中郁次郎一橋大学名誉教授の「場の経営論」を中心にして、「日本的ティール組織」「日本的ホラクラシー経営」の具体的な形に迫りたいと思います。